荷風偏奇館跡

麻布に住んで25年になる。
ふと荷風と比較してみた。永井荷風は大正9年(1920年)、麻布区市兵衛町一丁目六番地に約百坪の土地を購い、建坪約38坪ほどの二階建て瓦葺木造洋館を建てた。時に荷風41歳。
ペンキ塗りだったので「偏奇館」(へんきかん、あるいはペンキかん)と呼んだ。『墨東綺譚』『雨蕭々』など、脂ののりきった時代の荷風の名作はこの地で書かれた。

ペンキの色は何色だったろうか。なんとはなしに白のような気がしていたが、森銑三氏の『明治人物夜話』(講談社文庫、1973)によると、青ペンキだとある。

在りし日の偏奇館

昭和20年、1945年3月10日の東京大空襲で偏奇館は焼け落ちた。荷風66歳。この日から老残流浪の日々が始まった。
つまり荷風は25年間を麻布市兵衛町、今の六本木1丁目で過ごしたことになる。ぼくと同じ期間だけ麻布の人であったわけだ。
荷風としては、一カ所に住み暮らした中では一番長期間にわたった。もし空襲なかりせば、おそらく死ぬまでここにとどまったに違いない。荷風は隠棲に適したこの地をこの館をこよなく愛していたのだから。
よって偏奇館跡地は荷風崇拝者にとって聖地の一つだ。終(つい)の住み処(すみか)となった市川・真間の旧居(こちらは現存)と共に、この地を訪ねた人は多いはずだ。ぼくも荷風研究を始めてからはこの地を何度も訪れた。以前は港区教育委員会が「荷風旧居跡」という表示板を立ててくれていた。
最後に訪ねたのは2年前で、その時は六本木一丁目再開発が進行中。跡地に建ったマンションが壊される寸前だった。その後、再開発はどのように進行しただろうか。もちろん一帯は変わり果てているに違いない……とは覚悟していたが、現地を訪ねてみて、やはり「うわわわ〜」と驚き魂消(たまげ)ないわけにはゆかなかった。


港区六本木 1-6-5 泉ガーデンタワー 2002年9月18日

巨大な超高層ビルがどひゃーんと聳えたっているではないか。地上45階建ての「泉ガーデンタワー」だという。すごいね、青水晶の塔。
その横手には32階建てのマンション「泉レジデンス」が建つ。周辺には公園、道路が新設整備されて、かつての住宅地の面影はまったくない。陋巷を愛し、変貌ただならない都市の様相を嘆いていた荷風が天から眺めたら何と言うだろうか。

畏友・松本哉(まつもと・はじめ)君は下町研究家である一方、荷風研究家でもあり、よく連れだって荷風足跡を探索した仲だ。彼の著『永井荷風の東京空間』(河出書房新社、92/12)に偏奇館がどこにどのように建っていたかを教えてくれるイラストマップがあるので、それを見てほしい。

松本哉のイラストマップ

偏奇館は谷町と呼ばれる一帯を見下ろす崖の上に建っていた。真下はまったくの陋巷で、彼は自分の庭から眺められる「温泉町のような」眺望をおおいに愛していた。
谷町陋屋群は2年前までは健在だったが、今それは一掃されて、この「泉ガーデンタワー」と、それにつらなるビル群で覆いつくされている。
まったく地形が変化したために最初は呆然としてしまったのだが、地下鉄南北線六本木一丁目駅のところに「道源寺坂」が残っていたのでホッとした。
下に西光寺、上に道源寺という二つの寺の横手を登る坂で、登りきって二度ほど曲折すると偏奇館だった。
かつて何回か訪ねた記憶を頼りに坂を登る。偏奇館の荷風が銀座に出遊するときはこの坂を下って電車通りに出、タクシーを拾った。空襲の時は、猛火に逃げまどう老人と少女の手をひいてこの坂から逃がしてやったと「断腸亭日乗・戦災日記」に記してある。
江戸時代の地図にも記されている由緒ある坂は、皮肉なことに前よりもやや路幅を広げて整備された形で残っていた。

道源寺坂 西光寺前。右手方向に泉ガーデンタワー。↓

泉ガーデン裏手から泉ギャラリーへ渡る「泉はし」から、霊南坂〜ホテルオークラの通りを見る。
かつて「住友住宅」と言われた屋敷跡が今は公園になっている。
正面左手がスエーデン大使館(国旗が見える)。左手にスペイン大使館がある。その位置は変わらない。↓

ガーデンタワー裏手に切り開かれた新しい通り。南から北を望む。
直進するとスペイン大使館裏手、道源寺坂上に出る。
偏奇館跡地の記念碑は陸橋の手前、左側に立つ。↓

――――撮影日時はいずれも2002年9月18日。


2003年7月になって、「偏奇館跡地を示す掲示が立てられた」という情報を得て、さっそく訪ねてみた。
黒御影石の記念碑が、泉ガーデンタワー裏手の、新しい道路沿いにひっそりと立っていた。

拡大画像

果たして偏奇館がこの位置に建っていたかどうか、これほど地形が変わってしまっては、定かではない。なぜなら崖だったところが切り崩されて、新しい道路が作られたからだ。

これに関しては最終部分の「抜粋記事」を参照。

記念碑の遠景(画面中央)

泉ガーデンタワー地図と記念碑の位置(丸印)

以下は、記念碑に記された説明である。あまりよい文章とは言えない。(笑)
あとで調べてみたら、この文言は、区教育委員会がかつての偏奇館跡に立てた案内板のものと一字一句違わない。
新しく碑を建てるにあたって文章を推敲しなおすとか考えなかったのだろうか。

碑の拡大画像をみれば、「偏奇館吟草」の上に「断腸亭」の落款があるのが見えるだろう。
この印章は、荷風を敬慕していた谷崎潤一郎が自分で篆刻し、荷風に贈ったものである。

 

偏奇館跡

  小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の
  偏奇館を新築し、二十五年ほど悠悠自適の生活を
  送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。
  荷風はここで「雨蕭々」「墨東綺譚」などの名作を書いています。
  偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、
  軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、
  滅びゆく江戸情趣に郷愁をみいだすといった、
  当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。

    冀(ねがわ)くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ
    われ一人住むといへど
    幾年月の過ぎ来しかた
    思い出の夢のかずかず限り知られず
                     「偏奇館吟草」より

  平成十四年十二月     港区教育委員会

   ――――新記念碑の撮影は2003年7月19日


実際の偏奇館と、この記念碑がどれぐらいずれているか、『東京福袋』の吉野忍さんが新旧の地図を重ねあわせて、徘徊日記BBSのほうで発表してくれました。
その抜粋部分だけを見られます。

抜粋記事を見る


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