三谷喜三夫(フランス書院)




蘭先生、「闘病」の断片



 蘭先生が入院してから亡くなるまでの間の断片のいくつかを、思い出すままに
書いてみたいと思います。
 東京医大への入院は、九〇年二月六日のことです。荷物運びを頼まれた私は、
西新宿のマンションで二つのことを指示されました。一つは、自分の身に万一の
ことがあった時、机の上に置いてある日本文芸家協会あての葉書を投函すること
。それには、すでに購入してある富士霊園の墓名碑・式貴士の名の下に、『虹の
ジプシー』を刻むように書いてある。二つめは、ある資料の入ったビニール袋を
処分することでした。
 入院の保証人になるように頼まれたのは、この日よりもっと前のことになりま
すが、医者嫌いで通っていた先生へ入院決意の理由をきいたことがあります。そ
の時にいわれた一言は「作家的好奇心」でした。私は、なるほどそんなものなの
かと思いつつも、この頃すでに、そばの類も喉を通りにくい状態にあることを聞
かされていましたので、病状の真相をまだ知らないでいましたが、頭に刻まれた
一言として覚えています。
 入院から手術までは丸一ヶ月ありましたので見舞いといっても話し相手になり
に行ったようなもので、ある日、女房を紹介しておくから来るように命じられま
した。食堂で初めて夫人を紹介され、先生が少し席をはずされた際、その夫人か
ら病気が食道ガンであることを聞かされました。その可能性を疑ってはいました
が、衝撃を受けました。先生は亡くなるまで一貫して自分はガンではないからと
いいつづけていましたので、私には先生と会うときの負担となりました。
 手術は三月五日です。手術後、手術の状況を聞かされないままでいた夫人を促
して、担当医をつかまえ、話をしてもらいました。食道のほとんどを切除し、そ
の結果として胃が喉のすぐ下あたりまで上へ引っ張りあげられている状態という
ことでした。
 以後、九月六日の退院までのちょうど六ヶ月が、第一回目の闘病期となります
。
 この間、印象的に記憶していることの三つを書きたいと思います。
 手術後、ナースステーション隣りの監察室に移されたときに事故が起きました
。点滴液に混入すべきニトログリセリンの扱いではないかと思われるのですが、
先生いわく「大チョンボ」があり、あやうく死ぬところだったというのです。こ
のことを訴えるために、私に走り書きのメモを渡しました。これは今も手許にあ
りますが、えらく病院不信をつのらせています。同病室の患者でヘルニアの手術
をうけ、失敗して歩行困難になってしまったSさんを見ていたことも、先生の不
信感を強くする原因でしたが、そのSさんに、それとなく自分を見張ってくれる
ように頼んでくれともいっています。また、今後君が見舞いに来たときは顔をは
っきりと自分に近づけ、姓名を名乗れとも指示しています。「このチョンボは、
田中潤司さんなら、怒鳴り込んでいるところだ」というメモ書きを見て、この頃
、田中氏と連絡をとったように記憶しています。
 二つめは、監察室での病状悪化から集中治療室へ戻されてからのことです。夫
人を通じて、ある日曜日に急ぎ来院するように命じられました。厳重な消毒に、
きっちりとした白衣をまとい、集中治療室に入ると、検査機器と治療のためのあ
らゆるクダのようなものに取り巻かれて、先生はベッドに横たわっていました。
眼は虚ろで呼吸も荒く、きわめて苦しそうな様子です。
 このときはメモを書く力もなく、五十音表に指を当てて言葉をつくるのです。
いいたかったことは、自分の身をここから東京女子医大に移してくれということ
です。とにかくこのままでは、病院に殺されてしまうのだ、早く転院させろと繰
り返し五十音表に指を当てつづけます。もちろん、そんなことは不可能ですので
、もう少し回復したら、いわれた通りにするから、ここはしばらく待つことを説
得するしかありませんでした。
 以上に二つのことは、後になってからきいたことですが、先生は全く覚えてお
らず、一種の錯乱状態下にあったと思われます。
 三つめは、館さんが初めて監察室にいた先生を見舞われた日、かなり興奮して
館さんのヒゲを撫でたり引っ張ったりしながらメモを取った先生が、「この世の
中に、これほどの苦痛があろうとは想像だにすることができなかった」と書かれ
たことです。「作家的好奇心」どころではない! という先生の苦しさが伝わっ
てくるような想いを感じていました。この興奮で夕方から高熱を発したため、見
舞いも制限ということになってしまいます。
 執拗な痰に悩まされながら、点滴のみで体力を辛うじて維持し、ようやく退院
となった日、看護婦が「もう戻ってきてはダメよ」とかけた言葉に、機嫌よく「
もう戻らない」と答えた先生の笑顔は、この後につづく食べることとの闘いの中
で失われがちになっていきます。
 食べても食べても、もどしてしまうこと、食べものが喉を通りにくいことで考
えた方法は、「離乳食」による栄養の補給でしたが、これも、とても食べられる
ものではないということで短期間で断念。体力は衰え、体重は激減してしまいま
す。
 二度目の入院をすすめたのは、九〇年も十二月になって階下のスーパーに食料
品を買い出しに行くのも不自由になりはじめた頃だったと思います。入院して点
滴による体力維持の必要性を説いたとき、「点滴の主成分は糖である。俺は糖尿
病だから、その点滴液の調合をするのが難しいのだ。君は点滴、点滴というが、
そういう俺の点滴液をいったい誰が的確につくってくれるというのだ。東京女子
医大に入院している『まえだ』のママは、その点滴の打ちすぎで糖尿になったと
いうではないか」と強く拒み、怒りました。
 年が明けてから東京医大に診察に行った頃は、カロリーメイトを食べながら待
合室での長い時間を過ごし、坐っているのも苦痛という状況でしたが、再入院を
すすめる医者の話に、あと二週間このまま何とかやらせてくれないかと頼んで、
最後の食べることとの闘いに挑んだのです。この時すすめられた渋谷の古畑病院
を、先生は念のため下見に行っています。雪の降る寒い日の外出となったために
風邪をひいたことを後に知りました。
 九一年一月二十五日、再入院を決意した先生を迎えにマンションに行き、その
指示で最初に連れていったのは、住友ビル内にある歯科医です。治療を終えて「
これで安心して入院できる」と言われて、目と鼻の先の東京医大を目指して歩き
ますが、歩く体力がありません。「背負ってくれ」と命じられて最初にして最後
のことですが二十メートルほど先生を背にして歩きました。しかし、かえって胸
が圧迫されて苦しくなり、今度は本当に支えられながら一歩一歩進むというよう
な状態です。
 それでも東京医大地下一階の理髪室に足を運びます。白くうすくなってしまっ
た頭髪を短時間で整え、診察室に向かいましたが、もう坐って待つことはできま
せんでした。医者は先生が希望する古畑病院の特別室の空きは確認したものの、
何時ふさがってしまうか保証できないという理由で、一日待ってほしいという先
生の希望を拒み、即入院となります。
 マンションに戻り、紙袋に必要な品物を投げ込み、都庁の完成を見届けること
を楽しみにしていた部屋からの眺望を見る時間もなく、あっけない自室との別れ
でした。私は再びこの部屋に戻ってこれる可能性の少ないことを感じていました
ので、このあっけなさに悲しい思いをしたのです。
 古畑病院特別室は、ウォシュレット付きのトイレとバス、ソファとピンク電話
の設備があり、いたく先生を満足させました。特にトイレはうれしかったようで
す。
 入院されたことで安心したのと、仕事の忙しさもあって、その後二週間、私が
見舞いを怠っていた折、先生から電話があり、「君は見舞いに来る来ると言って
いるが、ちっとも来ないではないか」と叱られてしまいます。
 慌てて古畑病院に行きますと、私にはたいへん不機嫌でしたが、福山さんが依
頼した「女教師もの」のアンソロジーの企画をたいへんに喜んでいて、自分でも
少し読みなおすんだと張り切っていました。
 東京医大、古畑病院とつづいて先生が危惧していたことは、右手が注射によっ
て使えなくなることでした。古畑病院でも肩への筋肉注射によって右腕が腫れた
りして不安をうったえます。この病院でのこうした不安は、先生が最後まで持っ
ていたカメラで、自らの腕を撮っていたことにも表れています。
 三十分ほど気持ちよく寝入られた先生を見ながら坐っていますと、ふと目を開
けて「何だ、まだいたのか」と一言言われてからベッドに上半身をお起こし、口
をすすぎたいからコップに水をくれと命じました。都合二度、水をベッドに運び
、その後始末をした後、帰る旨を伝えますと、めずらしく部屋の明かりを消せと
目顔で指示します。私は出口にあるスイッチを切り、暗い部屋に先生を残してド
アを閉じたのですが、これが永遠の別れとなりました。
 二月十八日午後六時すぎ、危険だという報せをきいて館さんと古畑病院に行き
、病室のドアを少しだけ開いたとき、目に飛び込んできたのは先生の顔にかけら
れた白い布でした。「だめだった」ということと、「申し訳ない」という想いが
交錯しました。後者の想いは、その深夜に落合斎場の冷たい霊安室に先生の棺を
入れたとき、一層強く感じました。
 当時のことを思い出すままに走り書きをしてきましたが、闘病中の先生につい
ては、もっとたくさんのことがあります。しかしこれ以上は、そっと胸の内にし
まっておきたい気持ちです。本当に先生を思い出すときは、いつも元気でいた頃
の顔だからです。
 入院時に託された「葉書」は、退院後の九月末、先生自らの手で投函されてお
り、ある資料もまた、自ら処分されたようで、遺宅の本箱の指示された場所から
は消えていました。


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